関西ローカルで深夜に放送されている、「かまいたちの知らんけど」。
この番組の1時間特別編「濱家が涙…スーパー・イズミヤへ最後の挨拶」の回が、とても面白かったし、好評を得ているらしい。
かまいたち・濱家さんの大切な場所「イズミヤ上新庄(かみしんじょう)店」の閉店が決定。店に最後の挨拶に出向き、店内を回りながら思い出を語りまくり、ポテトを食べつつ涙する、1時間のドキュメンタリー番組。
ようこんな番組、作ったなあ(笑)。
ちなみに「イズミヤ」というのは、関西圏にある、スーパーマーケットです。
濱家さんの、イズミヤ上新庄店への熱すぎる愛を聞いていると、学生時代のアルバイトの記憶が、ぶわーっとよみがえりました。
高校卒業後、いくつかアルバイトをしましたが、一番長く携わったのが、スーパーのレジ。
勤務先は、イズミヤ茨木店(別館)。食品売場担当で、就職直前まで3年半ほど続けました。
求人を見つけて私に教えてくれたのは、私の母。
勤務する会社の最寄り駅に位置していて、普段からよく買い物をしていた場所なので、娘のバイト先として安心感があったんでしょうね。自分の目も届きやすいし。
「一応」学業優先で、バイトに行く日は土日祝日が多かったからか、なかなか社員さんに存在を認識してもらえなかった。
結果、サービスマン(カゴを片付けたり、サッカー台を拭いたり、売価を調べに走ったり、レジ袋などを補充したりする係を総称して、そう呼んでました)として店に立つことが多く、レジに入れるようになったのは、バイト開始後、半年ほど経ってからでした。パートのおばさまたちから「まだ教えてもらってないの?」と不思議がられるほどの、異様な遅さです。
私より後から入ってきた、平日もシフトに入る高校生バイトが、続々とレジデビューしていくのを見るのは、ちょっと複雑だったなあ。
でも、バイト生活終盤の時期には、警備員さんから「ここの社員になったらいいのに」と言われるくらい、皆さんに顔を覚えていただけました。
当時はまだPOSレジなど影も形もなく、売価は全部手打ち。今のように、釣り銭が自動で出てくるなんてことはありません。
教育時、レジの使い方だけでなく、釣り銭計算方法も伝授されました。混んでくると、暗算で釣り銭を計算する必要があったからです。
レジに入る前には、必ず売場を回って、その日の特売品などの価格をチェック。
何度も入力する機会のある、人気定番商品の売価は、いつの間にか覚えてしまってました。
生鮮品などは、緊急で売価が変更されることがあります。
そんな時は、売場担当からメモが回ってきて、そのメモ用紙を隣のレジ担当者に渡していくという、伝言ゲームみたいなこともしていたっけ。
売価がわからないと、売場まで確認しに走り、それでもわからないと、売場担当者を探し出して確認する必要があった。
その間、お客様は、じっと待ってくださってましたね。
閉店後、レジを締めた時に、お金の出入りが間違いない状態を「プラマイゼロ」と言ってたのですが、数円単位で差異が出ることは、よくあることでした。
自分が1日のほとんどを担当したレジで「プラマイゼロ」を達成した時は、うれしかったです。
一方、千数百円のお肉の価格を、間違って1万数千円と入力してしまい、社員さんに注意を受けたこともありました。
「イズミヤカード」というクレジットカードができたのも、私がバイトしていた時代。
1台だけ「カード対応レジ」というのが設置されたのですが、今とは違って、伝票への印字作業などがあって、ちょっとめんどくさかったな。
コンビニはありましたが、店舗数がまだまだ少なく、日常の買い物はみんなスーパーへ行っていた時代です。
デパートもスーパーも、週に一度の定休日があり、年始は最低三が日は店を閉めてました。
だから、特売日や週末の店の混み方は、今とはレベルが違います。
特に年末は、お正月用品や数日分の食料を求めて、お客さんが押し寄せてくるので、来店人数も購入数も、半端なくすごかった。品物で満載のカゴを2つも3つも持っているお客さんが、十数台のレジのそれぞれに20人近く並ぶ光景は、今も忘れません。
大規模な店舗改装もあったなあ。制服も途中で変わったっけ。
バイトしている時期に発生したのが、グリコ・森永事件。
店舗所在地の茨木市近辺でも、関連事件がいろいろ発生したこともあり、売場で警察関係者の姿を見かけた時期もありました。
500円玉が初めて発行されたのも、バイトしていた頃でした。
当時は、レジトレイ内に500円玉を収納する所がなかったので、500円札を収納する所に入れてたっけ。
レジトレイにたまった札束を、定期的に回収にくる警備員さんに、お客さんの目の前で手渡ししてましたよ。
今じゃ考えられない、ゆるい時代でした。
冬の寒さは格別だったこと。
別のレジに並んでいても、私が入っているレジに並び直してくれるお客さんが複数いらっしゃったこと。
春の大阪場所の季節になると、買い物に来る力士の姿があったこと。
けっして清潔な状態ではないおばあちゃんが入店された瞬間に、酸っぱいニオイが店内に漂ったこと。
濱家さん同様、ちょっと記憶のかけらに触れると、次々と思い出が湧き出る。
濱家さんが、イズミヤ上新庄店について延々と語るのも、思い出の場所に「ありがとうございました」と挨拶するのも、何かすごくよくわかる。
彼にとっての上新庄店は、存在しているのが当たり前だから、閉店は想定外だった。たくさんの思い出が詰まった、大事な場所だったんだよね。
閉店後の上新庄店は、もしかしたら取り壊されるかもしれません。
でも、たとえ建物がなくなっても、別の建物に代わったとしても、「ここにイズミヤがあったんや」という話ができ、数々の思い出につながっていく場所が心に残ることは、とても豊かなことだと思うのです。
私がバイトしていたイズミヤ茨木店(別館)は、知らない間に閉店・解体され、跡地はマンションになりました。
思い出の店がなくなって衝撃を受けましたが、今でも近所を通りかかると、当時のことを懐かしく思い出します。建物が代わっても、私にとって、あの場所は思い出の場所なのです。
失敗も多々あったけど、私なりに頑張ってた。
そのことを思い出せるだけでも、食品レジのアルバイト経験は私の財産で、 今の私の一部でもあるということです。
最後の挨拶に行けた濱家さんは、とても幸せだと思う。
傍らの山内さんは、若干引き気味だったけど。
動画公開は、9月26日まで。もうすぐ公開終了です。
濱家さんの熱のこもったトークと、イズミヤ上新庄店の最後の1日がご覧になれます。
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