Amazonで介護エッセイを発売中。
2004年から2009年まで更新していたブログ「今週のすぎやん」の内容を抜粋・修正し、ブログには書ききれなかった作者の思いや後日談なども新たに書き下ろしたエッセイ。

私の「1995年1月17日」~阪神・淡路大震災から30年の日によせて~

供花 旧ブログ・旧HP記事の復刻
記事内に広告が含まれています。

親戚の場合

神戸市内に住んでいた親戚はふたり。いずれも母方のおばで、伴侶を既に亡くし、1人暮らしでした。

被害の大きかった地域のひとつである、須磨区に住んでいた叔母。
幸い家は残りましたが、かなり建て付けが悪くなり、歩くと床はミシミシと音を立てていました。ひとりで怖かったはずなのですが、叔母は飄々としてました。

ネットもケータイもまだ普及していなかった時代ですので、通信手段は固定電話だけ。でも地震から数日間は、電話が全く通じなかったので、叔母の安否がつかめない。
必死で何度も電話して、やっと通じた時の叔母の怒りの第一声が、「なんで電話くれへんかったん」。

なぜ私が叱られねばならぬ。

北区に住んでいた伯母。
神戸の中心部から少し離れていたこともあり、深刻な被害は少なかったようです。

交通機関がマヒし、長く動かない路線もある中、須磨区に住んでいた叔母の元に通い、あれこれと面倒を見ていました。金銭面でも体力面でも、負担が大きかっただろうに、「あんたは心配せんと、仕事しとき」と、逆に励ましてくれました。

ふたりとも、既に故人となりました。

上司の場合

当時勤務していた会社の上司のひとりが、兵庫県宝塚市在住でした。
被災したのは、新築マンションを購入し、大阪市内から転居してから1年も経たない頃。

ライフライン、とりわけガスの復旧にかなり時間がかかっていたため、上司はカセットコンロ用のガスを必死になって買い集めていました。彼のロッカーには、様々なつてを頼って入手したそれが、たくさん入ってました。
冬の寒い時期にガスが来ないのは、本当に大変だったと思います。ぼやきながらも、家族の安心のために走り回る上司を見て、同情していたのに。

その数年後、彼の人間性を疑う事件が起ころうとは。
それがきっかけで会社をやめ、ひとりで仕事を始めることになろうとは。

遠い昔の、苦い思い出です。

友人の場合

兵庫県内で、ご主人とふたり暮らしだった友人。
ショックは大きかったようですが、大きな被害がなかったのは幸いでした。

震災から数ヶ月後、彼女の自宅から自転車で二人乗りして、阪神高速道路の崩壊現場を一緒に見に行きました。
あんな大きな建造物が、あっけなく崩れてしまっている事実に、言葉が出ませんでした。

その後、彼女は2人の子どもを出産して4人家族に。
無事に子どもたちを社会に送り出し、再びご主人とのふたり暮らしが始まっています。

ダンナの場合

ダンナは当時、今とは別のシステム会社に勤務していました。
自宅からそれほど遠くなかったため、激しい揺れが収まった後、すぐに会社に駆けつけ、社内に設置されていたコンピューター類に異常がないか確認、倒れた物を元通りにするなどしたそうです。

「家に帰った後、またきつい揺れが来たから、ガックリしたけどな」

震災当日も、会社は通常通り営業。
しかし、電車が運休していたため、出勤できない社員から連絡が入ってくる。

「駅が壊れてます、とか言いよんねん。そんなことあるわけないし、嘘やろ~って言うてたんや」

ネットもケータイもまだ普及していなかった時代。社内にテレビやラジオもなかったので、勤務時間帯には情報を入手できなかったのです。

「家に帰ってニュース見て、びっくりした。駅が壊れてるっていうの、嘘やなかったんやって」

そして、私。

転職して2年目。母の一周忌のちょうど1週間後。
築40年近く経過した、2階建てのボロ家で、ひとりで寝ていました。

家が「ミシミシ」と音をたてて揺れたこと。
神戸の街がとんでもないことになっていると知ったのが、地震発生から2時間以上経った、朝の8時台だったこと。

電話が全く通じなくなったこと。
電車が運休し、大阪市内の事務所に出勤できなかったのに、京阪電車沿線に位置していた本社は、みんな普通に出勤し、通常通りに仕事をしていて、大阪府内でもここまで違うのかとビックリしたこと。

地震がきっかけで、数十年ぶりに連絡してきた親戚がいたこと。
私の身近な人の中に、「被災者」と呼ばれる人がいたこと。

電車で兵庫県に入ると、一変する車窓の景色。
建物が取り壊されたあとの、不自然な空間。
ブルーシートが掛けられた屋根。

あれから30年。

あの日、あの時に感じた、怖さ、驚き、悲しみ、さびしさ、とまどい、迷い。

私でさえ、不安定な心の状態になったのだから、被災地のど真ん中であの揺れを体験した方の心の状態は、いかばかりか。
どんな思いで、あの悲しみや無力感、泣くに泣けない儚さから立ち上がり、歩いてこられたのか。

その厳しい道のりに比べれば、私が当時抱いた感情なんて、ちっぽけなものだなあと思います。

でも、ちっぽけなものかもしれないけれど、私の記憶に刻まれた「1995年1月17日」、今後も忘れずにいたいです。
生きていることが奇跡なのだということ、忘れずにいたいです。

ささやかですが、それが私にできることのひとつだと信じているから。

コメント

タイトルとURLをコピーしました