特に朝夕の時間帯に、複数のカラス同士が会話しているような鳴き声を、時折耳にします。
1羽のカラスが鳴くと、その声に呼応するように、別のカラスが鳴く。
そしてまた、別のカラスが鳴く。
私はこういうのを、「カラス通信」と呼んでます。
「今日はこの辺、ゴミの日やで」とか、「明日は生ゴミ出す日と違うから、待ってても無駄やで」とか、「あっちで可愛い子、おったで」とか、「向こうで縄張り争いやってるで」とか、カラスたちにとって大事な情報を交換し合っているのかもしれないな、って思いながら聞いてます。
気味の悪い鳴き声だったり、頭上でずっと鳴かれたりすると、ちょっとイラッとする時もありますが、それほど気にすることはありません。
しかし私の母は、生前、カラスの鳴き声を忌み嫌っていました。
「カラスが鳴くと悪いことがある」という、迷信じみた言い伝えが昔からありますが、母はその言い伝えを、頑なに信じていました。
嫌なことがあった時。
つらいことがあった時。
不幸があった時。
母は「今日、カラスが鳴いとったもんなあ」と、必ず言ってました。必ず、です。
「カラスの鳴き方が、いつもと違ったんや」
「頭の上でカラスが鳴いた」
「いつまでも鳴きながら、カラスがついてきた」
母の耳に常備されていた「カラス鳴き声センサー」は、とにかく精密。
常人では聞こえない、どんな小さな「カ~」という鳴き声も、絶対に聞き逃しません。
「今、カラスが鳴いたわ。嫌やわ」と言い、「なんか悪いこと、起こるんとちゃうやろか」と思い悩みます。
そして、どんな些細なことでも悪い方向に考え、小さな不幸も、大きな不幸も、全部カラスのせいにしていた母。
特に、墓地でカラスが鳴こうものなら、母は大騒ぎです。
墓参りしつつ、普段の倍以上思い悩み、あれこれ心配する。
さらにたちが悪いのは、「何か悪いことが起こるかも」という心配が、たまーに当たること。
あれこれ想定するから当然なのですが、「カラスが鳴く=悪」の深みに、さらにはまっていく。
当時は苦笑いしつつ、母の話を聞いてましたが、今思えばちょっと病的だったかも。
母がカラスの鳴き声を「カラス通信」として受け止められる人だったら、母の人生はもっと明るい方向に進んでいたのかもしれないなと、ふと思います。
私の人生も、もしかしたら、変わっていたかもしれません。
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