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2004年から2009年まで更新していたブログ「今週のすぎやん」の内容を抜粋・修正し、ブログには書ききれなかった作者の思いや後日談なども新たに書き下ろしたエッセイ。

30年。

供花 旧ブログ・旧HP記事の復刻
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私の母は、ある総合病院の脳外科病棟で看護助手をしていた。
性に合っていたのか、毎日のように職場や患者さんについて文句を言いつつも、勤続数十年。
若い看護師たちにも慕われ、仕事を離れても、彼女たちの面倒をよく見ていた。

母は、倒れるずいぶん前から、体調不良を訴えていた。少しずつ痩せてもきていた。胸にしこりらしきものがあるということも気付いていた。

しかし、誰にどんなに勧められても、母は検査を受けなかった。私も、「病院に行ったら?」と何度も言っていたが、母は「毎日行ってるがな」と答えるだけ。
検査を受けたら、仕事ができなくなる、もしかしたら間近に迫った定年まで勤務できなくなるかもしれないと、予感していたからだと思う。

そしてとうとう動けなくなり、出勤できなくなった。
本気で心配した上司の看護師さんからの強い援護射撃もあり、子供のように嫌がる母を、半ば強引に勤務先の病院に連れて行ったのが、1993年(平成5)年1月13日のことだった。

体調不良の原因が不明だったので、その日はとりあえず内科病棟に入院したのだが、入院の翌日、病院から私の勤務先に、脳外科病棟に移ったという連絡が入った。
母の体調不良は、小脳に出来た腫瘍が原因だった。

その夜、私は医師から、その腫瘍が悪性(ガン)にほぼ間違いないと聞かされた。
数日後に摘出手術を受けたのだが、この腫瘍は乳ガンの転移でできたものだった。

「脳に腫瘍ができたということは、もう全身に回っているということだよ」。

担当医はそれ以上のことはおっしゃらなかったが、母の死が近いという宣告と同じだった。

私はその宣告を、たったひとりで聞き、たったひとりで受け止めた。
そして母へガン告知をしないことを、たったひとりで決めた。

母はとても繊細で神経質な人だった。そして働くことがとにかく好きだった。
「いつまでこんな生活をしなければならないのか。早く働きたい。あとどれくらいで働けるのか」と、そればかりをつぶやいていた。

職業柄、自分がガンだとわかっていたと思う。だからこそ、検査を受けなかったのだろう。
でも母は、自分がガンかどうか、私に一切聞かなかった。

自分の病気は治る。退院すれば、また働ける。
私にそう言い続ける母を見ていると、ガン告知なんてとてもできなかったのだ。

入院して2ヶ月後、母は危篤状態に陥った。
数日間ほとんど話ができない状態が続いたが、一命を取り留めた。医師や看護師からは、奇跡だと言われた。

数ヶ月後、乳ガンの摘出手術。その後、母は近くの大学病院に一時転院し、放射線治療を受けた。
だけど、放射線治療が終了し、元の病院に戻る日、母は突然自力で立つことが困難になってしまった。

何とか元の病院に戻ったものの、その日を境にして、母の容態は少しずつ悪くなっていった。
トイレまで自力で行けなくなり、ベッドの横にポータブルトイレを置いたが、そこへの移動も1人では困難になった。
食事の量もどんどん減り、母はどんどん小さくなっていった。

12月に入る頃には、薬の影響もあって、ぼんやりしていたり、眠っていたりする日が多くなった。

12月後半に入り、母の体の機能が極度に衰え始め、担当医からも、もう施す治療はないという最終宣告をされた頃だったと思う。
現実と夢の世界を往復しているような状態になりつつあった母が、ある日、私の帰り際にこう言ったのだ。

「さよなら」と。

その声は妙に大きく、母は私をじっと見つめていた。

その後も、もうまともな会話は交わせなくなってはいたけれど、それでも何かしら話していたように思う。
でも私は、母の「さよなら」の言葉以降の会話を、全く覚えていない。

1994年(平成6)年1月10日。
母が昏睡状態に陥ったため、母方の親戚数人を呼び集めた。
容態を聞いた、母と親しくして下さった看護師さん、看護助手さんたち、母が尊敬していた看護師長さんも、病室に来てくださった。

その夜、数々の偶然が重なり、病室に母と私だけが残される時間が訪れた。

昏睡状態の母のすぐそばで、私は小さな声でこう語りかけた。
「もういいよ、しんどかったらもうええよ。後は私が、がんばるから」。

その瞬間、母の心臓が止まったことを知らせる機械音が鳴り響いた。
奇跡のような偶然だった。

あの日から、今日で、30年。

母は元々、私に依存気味だったが、入院してからは、とにかく、何もかも全て、全身全霊で私に依存してきた。
母が入院中、私は毎日毎日病院に通った。1日でも行かなければ、泣き声で電話をかけてくるからだ。

正直、本当にしんどい1年だった。
今だから言えるが、母の死の悲しみより、やっと終わった、ほっとしたという思いの方が強かった。

もっと早く検査を受けてくれていたら、助かっていたかもしれない。
定年まで仕事を全うするという目標を達成できたかもしれない。
お互い、こんなにしんどい思いをしなくて済んだかもしれない。

でも、これが、母の生き様。

そして、死してなお、母は存在を主張する。

入院の日が、1993年(平成5)年1月13日。
葬儀の日が、1994年(平成6)年1月13日。
ちなみに、父の葬儀は、母の死からちょうど15年後の、2009年(平成21年)1月10日。

母は、父まで巻き込んで、「私のことを忘れたら、承知せえへんで!」と言ってるのかもしれないな。

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